「タイム(Thyme)」は、最もよく知られているハーブの1種である。その葉、または、開花期の地上部を、肉料理やカレー料理のほか、ハムや、ソーセージの香りづけなどに用いる。昔から煮込み料理には欠かせないハーブとして親しまれている。その人気の秘密は、タイムの気品ある爽やかな香りと風味である。薬用としても、ハーブティーにして、風邪、気管支炎、咽頭炎などに利用される。また、血行をよくし、消化を助ける作用があるということで、このタイムティーを愛飲している人も多い。タイムは、また、浴湯料としても使われる。タイムを水蒸気蒸留して得られた精油成分は、「タイム油(Thyme oil)」と呼ばれる。「チモール(Thymol)」などの成分を含み、鎮痛、鎮咳、駆虫薬のほか、歯磨きやソースの香料などに用いられる。
一般に「タイム」という名で呼ばれる植物はヨーロッパ原産の「タチジャコウソウ」” Thymus vulgaris L.”のことである。英名で”Common thyme”、”Garden thyme”あるいは”French thyme”などと呼ばれている。しかし、同属の他のいくつかの種も、「タイム」と呼ばれ、ハーブとして利用されている。例えば「ヨウシュイブキジャコウソウ」”Thymus serpyllum L.”(英名;”Mother of thyme”あるいは”Wild thyme”)や「レモンタイム」”Thymus x citriodorus (Pers.) Schreb. ex Scheigg.”(英名;”Lemon thyme”)などである。「イブキジャコウソウ」もその1種である。
Thymus属(イブキジャコウソウ属)植物は、ヨーロッパ、アジア、アフリカなどに約35種が分布している。いずれも枝が細く、葉も小さな低木である。これらの種の中で、唯一日本に自生しているのは、「イブキジャコウソウ」である。このことから「イブキジャコウソウ」は、「日本のタイム」と呼ばれている。「イブキジャコウソウ」は、「タチジャコウソウ」に極めてよく似た性質をもっている。含有成分や、香りもほとんど変わらない。その利用の仕方も、「タチジャコウソウ」と同じように、「タイム」として使われる。ただ「イブキジャコウソウ」は、「タチジャコウソウ」と異なり、ややつる性で、地面を這う性質をもつ。そして、ジュウタンのような群落を形成する。地上部の高さも5~15cmである。木本類では最も矮性であるといわれている。これに対し「タチジャコウソウ」は、その名が示すように、茎が立つ性質をもつ。地上部の高さも30cmほどになる。このことが、両者間で異なる。
「イブキジャコウソウ」は、北海道から九州までの日本列島と、中国、ヒマラヤ、アフガニスタンにかけての温帯から寒帯地域に分布している。日当たりの良い山の岩場や草地、時には、海岸などに生える小低木である。茎は細く、ややつる状に張り、節から根を出す。葉は、小さく、長さ5~10mmである。葉の先は円く,葉の両面には小さい分泌腺が点在している。植物体に触れると、その香気が触れた部分へ移る。葉や茎を摘むと、よい香りが周囲に漂う。夏には、枝先に小さな花穂をつくり、写真に見られるように、可憐な淡いピンクの小さな花を多数着ける。花は唇形で、花冠は長さ5~8mmである。和名の「イブキジャコウソウ(伊吹麝香草)」は、伊吹山に多く分布し植物全体に麝香のような芳香があることに由来する。
この植物は、別名で、「ヒャクリコウ(百里香)」とも呼ばれる。この植物の芳香が、百里四方にも及ぶほど遠くまで漂うという意味である。それが事実であるかどうかかはともかく、この植物の香りの強さを言い表して、このような名前がつけられたのだと思う。この植物の学名(属名)”Thymus”は、”thyein” (香りを放つ)に由来するギリシャ古名”thyme”に基づくと言われている。この属の植物の多くが、芳香を放つことを特徴とすることによるものと思われる。英名の”Thyme”も、上述のギリシャ語の”thyein”に由来する。”thyein”には、「甘い香りに満ちる」という意味のほかに、「犠牲をささげる際に香を炊く」という意味がある。古代ギリシャ時代に、自分の罪をあがな贖うために、小動物をいけにえとして神にささげた。その際、このタイムを香料として一緒に炊かれたのかもしれない。タイムには、罪を清めたり、邪気を払ったりする効果があると信じられていたのであろうか。あるいは、タイムの芳しい香りが、神に喜ばれるささげものと考えられて、この香が炊かれたのであろうか。いずれにしても、そのような神聖な儀式にも、このタイムの香りが使われたのに違いない。
「イブキジャコウソウ」をはじめ、「タイム」と呼ばれる植物の香りの特徴は、すがすがしく、きりっとしたところである。古代ギリシャ人たちの間では、「あなたはタイムの香りがする」といわれるのが最高の賛辞だったと伝えられている。「タイム」の芳香の主成分は、チモール、カルバクロール、シメン、ピネン、リナロールなどからなる精油である。「イブキジャコウソウ」の全草は、生薬「百里香」と呼ばれ、薬用に使われる。花期に、地上部を採取し、水洗いして陰干しする。これに熱湯を注いで、ハーブティーとして、服用する。芳香成分には、発汗作用や、利尿作用、強壮作用のあることが知られている。また、血行をよくし、消化を助ける作用があるとのことである。これを、たん痰や、咳、風邪、頭痛、気管支炎、咽頭炎などの治療に利用される。また鎮痛、鎮咳、駆虫薬としても使われる。「イブキジャコウソウ」は、また、開花時に地上部を刈り取り、香りつけの目的で、浴湯料に配合される。食用としても、煮物の香りつけに使われる。
「イブキジャコウソウ」は、上記学名のほか、「ヨウシュイブキジャコウソウ」の亜種や、変種として記載されている文献が多く見られる。すなわち、
Thymus serpyllum L. ssp. quinquecostatus (Celak.) Kitam.
Thymus serpyllum L. var. ibukiensis Kudo
などである。 「ヨウシュイブキジャコウソウ」は英名で”Creeping thyme”(這う性質のタイム)とも呼ばれている。学名(種小名)の”serpyllum”も、「ヘビのように地を這い生育する」という意味で、この植物の習性を表わしている。「ヨウシュイブキジャコウソウ」は、「イブキジャコウソウ」と同様に、つる性で、地面を這う性質をもち、地上部の高さも5~15cmである。そして、マットのように敷きつめた群落を形成する。このような事実からも、「イブキジャコウソウ」と「ヨウシュイブキジャコウソウ」とは、きわめて近い関係にある種と考えられる。
「ヨウシュイブキジャコウソウ」は、「ワイルドタイム(Wild thyme)」と呼ばれ、やはり、ハーブとして料理の香りづけや、薬用に利用される。この植物は、ヨーロッパ、北アフリカからアジアに広く分布している。中国では、この植物の全草を乾燥したものを、生薬「地椒」と呼び、発汗、整腸、鎮咳などに用いる。 「ワイルドタイム」は、上述のように「イブキジャコウソウ」と同様に匍匐性である。この性質を利用して、ヨーロッパでは庭園に芝生の代わりに植えられていると聞く。その上を踏み歩くだけで、芳しい香りが漂ってくる。その上に車座にすわり、雑談したり、弁当をひろげながら、香りを楽しむことができる。それだけでも、どれだけ生活に潤いをもたらすことができることだろうか。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、庭園について書いたものの中で、「踏みつぶすと空中に芳香を放って楽しくなるものが3つある」として、その中の1つに「ワイルドタイム」をあげているとのことである。日本の各地の公園や庭園にも、芝生の代わりに、日本のタイム「イブキジャコウソウ」を植えてみてはいかがであろうか。どれほど人々に喜ばれるか、はかりしれない。手入れには、多少の労力が必要と思われるけれども。当館でも、このような試みを少し行っているところである。
代表的なタイムである「タチジャコウソウ」は、ヨーロッパ南部、地中海沿岸地域の原産である。香料のタイムを採るためにヨーロッパ各地で栽培されている。特にフランスなど地中海沿岸地域で多く栽培されている。
(「プランタ」研成社発行より)